その由緒は、朝廷に背き討死した平将門の首を、将門所縁の者達がこの地に納めて墳墓を築いたとも、怨念で京から首がこの地に飛んできて祀られたともいわれています。
13世紀には将門塚周辺は荒廃し、天変地異が起こり村民たちを悩ませたといわれています。徳治2年(1307)、時宗の僧・真教上人が将門公の霊を鎮魂し、「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈。延慶2年(1309)には、将門公を神田明神に合祀したのだそうです。
その後、神田明神は、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護にあたる現在地に遷座。将門塚はそのまま残され、丁重にお祀りされたのだそうです。しかし、明治時代には、朝敵という理由から神田明神のご祭神から外され、その後、紆余曲折を経て、昭和59年にご祭神として正式復座されました。
正面の「板石塔婆」(板碑)は、昭和45年に再建されたもので、「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年」と刻まれ、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆。この文面は、徳治2年(1307)に真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際、作られたと伝えられている板碑の拓本から取ったものなのだとか。
周囲には蛙の置物。将門公の首が京から飛んで帰ったことにちなみ、海外や地方へ転勤、あるいは行方不明者が無事帰るよう、蛙(帰る)の置物をお供えするようになったのだとか。(諸説あります)
いつ来ても綺麗に清掃され、数々の香華や供物が絶えません。この場所がいかに大切にされているかが、これだけを見ても良く分かりますよね。
大手町の再開発計画では、この場所は計画に含まれず、周囲は緑地にされるそう。既に工事が始まり、周囲には鉄骨が組まれて簡易の屋根が出来上がっていました。ここは長きにわたり、しばしば訪れている場所でもあり、この地が今後も大切に保護されていくことを心から願っています。
2022年11月追記:
2021年4月末に改修工事は終わり、以前と比べると随分スッキリして明るい空間へ。
とはいえ塚の周りには座る場所はなくなり、落ち着いて参拝が出来なくなった印象。なんとなくその存在が遠くなったような・・供物は持ち帰り、物品の寄進はお控え下さいとの注意書きがあり、蛙の置物もなくなっていました。一見すると見栄えは良くなりましたが、居心地はちょっと悪くなったというのが個人的な感想でした。平将門命への奉納を希望する場合は、神田神社(神田明神)の社務所で受け付けているそうです。